3月某日、東京国立近代美術館の「岡本太郎展」に行ってきた。
街道の桜たちは「春」を待ちわび、今にも蕾を開花させようとしている。だが、この国に住む多くの人々が「真冬」を生きていることに思いを馳せつつ、私は岡本太郎がその人生の中で生み出した彫刻・絵画・デザイン・そして言葉を堪能してきた。そしてその日の出来事を、私は敬愛する先輩のOさんにメールで報告した。(Oさんはドラマ『TAROの塔』に携わっている)
その夜、Oさんから返信が来た。そこにはただ、こう書かれていた。
「自分が燃えたのか?」
その文面を読んだ瞬間、私は自分の内が「カッ」と熱くなり、血が滾るのを感じた。少なくとも自分の内に「TARO」の火種は燻ぶっているのを、私は確信したのだ。もちろん、Oさんの内にも「TARO」は生きている。
万博を、国や企業の見本市から普通の人間の、純粋な「祭り」にするために岡本太郎は闘った。道化となろうとも、あえて生贄になり、血を流すことを厭わなかった岡本太郎。
そして、そんな岡本太郎展が開催されている傍らで、いま別の「祭り」が始まろうとしている。今年の「祭り」は単なる「祭り」であってはならない。これは闘いであり、そして「べらぼう」な祭りでなければならない。
明治維新以前、集落における「祭り」とは、(ハレ=非日常)の場だった。人々は仮面をつけ、踊り狂い、一時(ケ=日常)からトリップしたのだ。
今、この国は別の意味で、否応ない「非日常」に付き纏われている。その閉塞した社会で、仮面をつけた人々は「己」を殺し、日々を生きていかなければならない。
だから、これから開催する「祭り」は、私たちが(ケ=日常)を取り戻す「祭り」でなければならないのだ。今こそ仮面をうち捨て、「己」を取り戻さなければならない。そして「祭り」にはまた、亡くなった人々に対する「鎮魂」という意味合いもある。そのことを踏まえた上で、私たちはこれから始めようとしている祭りを「べらぼう」な祭りにしなければならないのだ。
それが今、私たちにできることだと思うから。